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湾岸戦争 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 湾岸戦争 戦争:湾岸戦争 年月日:1991年1月17日 - 1991年2月28日 場所:ペルシャ湾岸 結果:多国籍軍の勝利、安保理決議687号 交戦勢力 アメリカ合衆国 イギリス サウジアラビア フランス etc... イラク 指揮官 ノーマン・シュワルツコフ サッダーム・フセイン 戦力 956,600名 360,000名 損害 戦死・行方不明 186 戦傷 513 捕虜 46 推定戦死者 100,000〜150,000 湾岸戦争 クウェート侵攻 - 砂漠の盾作戦 - カフジの戦い - 砂漠の嵐作戦 - スカッドミサイル狩り - 砂漠の剣作戦 - 東部戦線 - 中部戦線 - 西部戦線 - 死のハイウェイ - 砂漠の送別作戦 戦後の監視活動 サザン・ウォッチ作戦 クウェート全図 作戦を遂行するコリン・パウエル、ノーマン・シュワルツコフ、ポール・ウォルフォウィッツ(左から)湾岸戦争(わんがんせんそう、英語:Gulf War)は、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したのを機に、アメリカ合衆国が中心となり、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆した事にはじまる戦争。イラクのクウェートへの侵攻から湾岸戦争の開始ととらえることもある。アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争(??? ?????? ???????)と呼ぶことが少なくない。 目次 [非表示] 1 概説 2 湾岸危機(開戦までの経緯) 2.1 イラクとクウェートの摩擦 2.2 イラク軍クウェート侵攻 3 戦争推移 転職サイト 3.1 砂漠の嵐 3.2 砂漠の剣 3.3 停戦協定 3.4 損失 3.5 ペルシャ湾への重油流出 3.6 米軍の戦費 3.7 戦後補償 3.8 最新兵器 4 陰謀説 5 テロリストへの影響 6 日本への影響 7 多国籍軍に参加した国一覧 8 参考文献 9 脚注 10 関連項目 スカウト [編集] 概説 日本では英語の“GULF WAR”を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが舞台になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。又、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。一方イラクでは、多国籍軍が30ヶ国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは「ブッシュ戦争」などと呼んでいる。 CNNなどで初めてリアルタイムで戦争が伝えられ、まるでテレビゲームのようにミサイルが正確に目標に命中する映像から、"ニンテンドー"がテレビゲーム一般の呼び名(語源は日本のテレビゲームメーカーの任天堂)となっている欧米では、「Nintendo War(ニンテンドーウォー/任天堂戦争/意訳:テレビゲーム的な戦争)」とも呼ばれた。 仕事 [編集] 湾岸危機(開戦までの経緯) [編集] イラクとクウェートの摩擦 1988年8月20日、イスラム原理主義国家イランとサッダーム・フセイン独裁の世俗国家イラクとの、8年間に及ぶイラン・イラク戦争が一応の停戦を迎えた。戦争中にアメリカ合衆国、ソビエト連邦などの大国や、ペルシャ湾岸のアラブ諸国に援助された軍事力は、イスラエルをのぞいた中東では最大となったが、イラクは600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることとなり、戦災によって経済の回復も遅れていた。イラクが外貨を獲得する手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレル15から16ドルの安値を推移し、イラク経済は行き詰っていた。 イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農作物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセインは追い詰められた。 一方、サウジアラビアとクウェートがOPECの割当量を超えた石油の増産を行なっていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウド家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートはOPECを完全に無視して大量に採掘し、原油価格は値崩れを起こした。こうして石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。 看護師 求人 クウェートはルメイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田については、イラクも領有を主張しており(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)、クウェートの行為は盗掘だと非難した。また、クウェート国内では石油利益の配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。 フセインはOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。しかし、OPECは聞き入れず、クウェートやサウジアラビアはなおも増産を続けたため、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に機甲師団を集結しているところを米偵察衛星が発見した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。 アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はまるで相手にしなかった。エジプトは仲介のため動き、OPECはフセインを懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセインは不満だった。一方、クウェートは金銭により解決できると考えたのか、充分な防衛体制を敷かなかった上、7月31日の両国会談ではイラクを激しく侮辱した。 8月1日、両国を仲介していたエジプト大統領のホスニー・ムバーラクとパレスチナ解放機構(PLO)議長のヤーセル・アラファートは「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。 [編集] イラク軍クウェート侵攻 1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とするイラク軍機甲師団10万人はクウェートに侵攻を開始した。ムバラクとアラファトを完全に出し抜いた格好だった。 クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにクウェート全土を占領した。同時に革命評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、アラアー・フセイン・アリー首班のクウェート暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚がクウェート人の知らないイラク軍人だったと見られる)なる事実上の傀儡政権の成立を報じた。一方、クウェートの首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハはサウジアラビアへ亡命した。 これに対し、同日中に国連安全保障理事会は即時無条件撤退を求める国連決議第660号を決議、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う国連決議第661号も決議した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、661号の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。 8月7日、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはサウジアラビアへ圧力をかけて、米軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内に聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、異教徒の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。しかし、サウジアラビアとしても、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていたのであり(石油の過剰輸出もある)、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。 しかし、国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは有志を募るという形での多国籍軍での攻撃を決め、イギリス・フランスなどもこれに続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、米国と敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(「砂漠の盾」作戦 operation desert shield )。